6・15全国学生集会(参議院議員会館)での連帯あいさつ

昼のデモを私も一緒にとりくみましたが、やはり全学連の鮮やかな旗を先頭にしたデモはいいですね。ちょうど昼休みの霞ヶ関界隈でしたが、全学連の旗があるだけで沿道の反応が違った。日本の戦後階級闘争は、全学連が先頭に立ち、それが全国の労働者人民の魂を揺さぶって爆発していった。今ふたたびそうした情勢に近づいていると感じました。

確かに60年・70年と今、学生が決起する条件は違ってきている感じます。学費、就活、奨学金の「三重苦」といわれる現実。人と人とが結びつくこと、仲間と話すこと、一言で言えば団結が破壊されている。だけど、だからこそ、学生が根本的に決起できる時代ともいえます。

ブラックバイトだとか「名ばかり店長」とか、一生この世の中で奴隷、あるいは奴隷頭として終わるのか、それとも人間としての自由、尊厳を追求して生きていくのか。この選択がいまほどわかりやすい時代はない。いわんや戦争です、「安倍のために死ねるか」という皆さんのスローガン、あんなやつらのために私たちが自分の人生を棒に振って命を捨てるわけにはいかない。

あの『きけ わだつみのこえ』という有名な戦没学生の手記があります。1943年10・21雨の明治神宮外苑での出陣大行進から始まって、兵役猶予が解除されて学生が戦場に送られる。明日の死を前にして遺書を書かせられる。その内容は、決して天皇崇拝とか愛国ではない。中国侵略のためにアメリカとの戦争で自分が殺されるとわかっている。だけど、ばらばらにされて抵抗できない自分の死を自分に納得させるために、親とか恋人とか家族とかふるさとのために自分は死ぬんだと言い残す。その残酷さ。わかっていながら自分に言い聞かせて、死に赴く。

この世の中で奴隷または奴隷頭として一生生きて行く、戦争で犬死するなどということはわれわれの選択肢に入らない。ではどうするのか。労働者階級と共に歩む。労働者階級の立場に身を投じる。確かに飛躍と決断が必要です。

この資本主義社会で戦争をとめる力は誰にあるのか。次の社会をつくるのは誰なのか。労働者階級だけではないか。労働者階級が、資本主義社会の中で最も虐げられ、すべてを奪われながら、全世界をひとつにできる力、人類の危機を乗り越える能力を持っている。マルクスの言葉を借りれば、最もよく歴史を学んだ非生産階級の先進的部分は、その労働者階級の立場に身を投じる。生産階級ではないから没落する。絶望しかない。ドイツのナチスの中心は、没落する小ブルジョアだった。日本でも戦前の右翼は僧侶や教師が多かった。国益・排外・愛国の戦争の中に展望があるのではないかと。あるいは、後年の三島由紀夫のように「国家のために死ぬことは美しい」。

われわれは、そんな考えには絶対に与しない。生きるということ、人間性の豊かさ。青年労働者は存在そのものの中から、自己解放性をつかみ取る。学生はそういう点では厳しさがある。だが、それを飛躍と決断で選択しようということなんです。

最後に、この安倍の戦争政治を、どう断ち切っていくか。ゼネストと国際連帯と、私は考えます。「戦争反対」ということを叫んでいるだけではなく、力、戦争を阻止する力。それが労働者階級の団結力、それを見せつけるゼネストでしょう。この社会を動かしているのは俺たちなんだ、俺たちの戦争反対の声をきけと。それでも戦争に突き進むのであれば、俺たちの力で倒す、そして労働者階級が新しい社会の担い手となる。スターリン主義―旧ソ連や中国とは違う。労働者階級自身が実際にこの社会を担っていることの延長に次の社会が生まれる。

もう一つは、国際連帯。戦争をする自国の政府を倒す。日本の人民は日本で、中国の人民は中国で、戦争をやる政権を倒す。つまり、自国政府をそれぞれが連帯して倒す。労働者には国境とか、国益などというものない。中国でも労働者階級の決起が始まった。

歴史のリアリズムはここにある。「憲法9条は人類の英知」なんて言ってる方がむしろむなしくなるだけ。沖縄・福島の怒り、動労千葉とか動労水戸の闘いを踏まえて、そして日々の地を這うような闘いを踏まえて、私たちは今ここに立っている。

そういうリアリズムを持って、さらにさらに学生の中に入り議論をしよう。議論の場がある限り、絶対にわれわれは勝つ。権力やその追従者には、嘘とでたらめしかないのだから。だから、法政大学のように、その場を奪う。ビラひとつ受け取らせない。なんとかして議論の場を獲得して、本当のことを語り合おう。